杉田修一プロフィール
息子の3才の誕生日。
プレゼントに作ってやったひとつのオモチャがコトの始まり。
ウケると次は、「こんなのどうだ!」と作りたがりの血が騒ぐ。
そこに「偶然」というスパイスも効いちゃったもんだから、さあ大変。
アレやコレや、あんなのもこんなのも、と作り続け、気付いてみれば早30数年。
1953 | 倉敷にて生まれる。 |
1975 | 武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。 |
1975 | 造形美術学校研究科にて各種技法を学び、更に修復研究室の歌田真介氏の元で素材などの研究をする。 |
1977 | 東京都の中学校美術教諭となる。 |
1987 | 倉敷に帰る。自宅にて絵画教室を開設し、西洋古典の模写やオリジナルの創作に励む。以降毎年個展を開く。〜92清心女子学園の講師となる。 |
1988 | 朝日カルチャー「テンペラ」・「油彩画」口座開設。以降、岡山天満屋、丸善シンフォニービル店、ギャラリーやぶき、倉敷エルパティオ等で個展を毎年開催。 |
1994 | 第11回ハンズ大賞入選。 |
1996 | 朝日現代クラフト展入選。 |
1997 | 年賀状、岡山県内版に水彩画「岡山城」が採用される。 |
1999 | ふるさと切手の原画に採用される。 |
そもそも、なんでこんな物を作り始めたのか物語
始まりは登り人形
そういえば、あれは、うちのドラ息子が3つになろうとする頃の事でした。
そろそろ、“何か記憶に残るような物をプレゼントしようかな”と思案していた頃に、ふと出会ったのがあの「登り人形」(ひもを交互に引くと登る、木でできた人形)でした。
これなら作れると思い、試行錯誤の結果、やっと出来た人形の名前は「ひでき3才登り人形」。
2つ作って、プレゼントされて喜んだのは、おじいちゃんとおばあちゃんの方でした(^_^;)
当の息子は、サッサと他のオモチャへ気移り。
「ま、子供ってそんなもんかな」と自身で納得し、ついでにいろんなアレンジを加えて、子供の反応を見てみたいと思うようになりました。
ある時は忍者、またある時は金太郎、そして熊さんに桃太郎……そうそう、金太郎はマサカリを背中にと、付属品を追加したり。
自宅での絵画教室(僕、絵描きなんです)の生徒さん達にもバカ受け!!
ついには忍者の手や足をブラブラ動くように造作し、2階までヒモを伸ばして遊ぶ始末。
息子も喜んでいましたが、当の親である僕が一番楽しんでいたのかも知れません。
東急ハンズ大賞展に入選してしまった
そんな作品を絵画教室の生徒さん方に御披露したら、Eさん(教室の生徒さん)から海外旅行のおみやげで買った木の鳥(勿論羽ばたくタイプ)をプレゼントされました。
そしたら、またそこでふつふつと創作意欲がわき、作った鳥が7種類(カワセミ、カモ、ハト、オナガ、コサギ、トンビ、フクロウ)になってしまいました。…しまいましたというのがホンネです。作りたがりのムシがそうさせたのですね〜。
生徒さん達の好評も追い風となり、つい出品してしまったのが「東急ハンズ大賞展」。そしてまさかの入選。ウソじゃないかと渋谷のハンズ大賞展へ足を運んだのはいうまでもありません。
その会場での作品のインパクトはヘタな絵画展を見るより感動的で、数年単位でしか出来そうもない作品から、アッサリと作った作品でもそのシャレたセンスの良いものまで、どれもシゲキ的なものばかりでした。
さて、ますます調子に乗ったぼくは、自作を店に置いてもらえるように・・・
キッカケは少年時代までさかのぼる
生まれて初めて大きな賞状をもらったのは、小学校5年生の頃、夏休みの宿題で、発明工夫の作品でした。休みが明けて提出した後、理科の先生に「おい、杉田くん。もうちょっとていねいに仕上げてもう一度持っておいで!」と言われ、何も考えずに仕上げて提出をすませた後、その作った事すらも忘れかけた数ヶ月後、先生から「オメデトー!!」の一言。
実は倉敷市内の発明工夫展で、金賞の次の賞かな(だったかよく覚えていない)を受賞。倉敷の天満屋の展示会場に作品を見に行ったのはいうまでもありません。そのタイトルは「飛行機練習機」。魚を入れる木箱を裏返して支柱を立て、ペダルを左右一対。操縦桿を動かすと、支柱から伸びた腕から釣り糸でぶら下げられたゼロ戦が、前後左右に動き、操縦桿についたボタンを押すと、左右の羽根についた機関銃のライトがピカリ。子供心にワクワクしたのを覚えています。
—–これは事後談ですが、20年位の後、ある雑誌に戦前の飛行隊員の訓練風景が載っていました。模型の飛行機で操縦の模擬訓練と称して、飛行練習用の機械を坊主頭の新兵が動かしている場面でした。2種類のドッキリを感じ、複雑な思いでその本の頁を閉じたのを閉じたのを覚えています。1つは僕と同じようなアイディアを思い付く人がいたんだという安心感というか共感といったもの。もう1つは、もし僕がこの時代に生まれていたら、こんな形で戦争に加担していたのかも知れないという、うしろめたい思いでした。つくづく平和な時代に生まれてよかったと思います。—–
しかし、僕が小学生の頃の我が家は、自営業の父とそれを支える母の忙しい日々の上に、男3人の兄弟が守られていたように思います。小学校低学年の頃、僕は近所のおばちゃん宅に里子に出され、土日のみ実家に帰るという数年でした。そのおばちゃんちの2階の屋根裏に、今は大人になった、そのおばちゃんの息子が、小さい頃遊んだ木のオモチャがあったのです。埃まみれのリンゴ箱いっぱいの木のオモチャをひとつひとつ出しては遊んだのをよく覚えています。骨董というよりガラクタが好きなのは、どうもこの頃の体験が元になっているようで、気が付けば木のクラフトの仕事についても根っこはここにあったのかなと‘ひとめぐり’したという感がありました。